部屋に戻ると、アイーシャはぐっすりと眠っていた。
『よく眠っている…』
 目を覚ましていなかったことにホッとして、やわらかな前髪を優しくすきながら、
エシャールはいろいろと考え込んでいた。
 記憶を失って、すでに5年。
 自分の過去がなくなったと自覚したのは目覚めてしばらく経ってからのことだった。
 白夜の剣を握ったままで気を失っていたらしい。鞘は腰に下がっていた。ぼんやりと
雨にうたれていたら、エシャールの持っていた剣を盗もうと、男が二人で
襲いかかってきた。エシャールはそのまま剣を抜き、音もたてずに彼等の間をすり抜け、
切りつけた。無気力な瞳で見据えると、男達は怯え、命乞いをし、エシャールに
金を差し出した。
 それ以来、剣で稼ぐようになったのである。その金で身支度を整えながら、
自分の過去を思い出せないことに気付いた。今思えば、だが。
 しばらくすると、エシャールの剣とそのたたずまいに惹かれるようにして仕事を
依頼してくる者が出てきた。その土地の有力者から無法者を捕えて欲しいと依頼された
こともある。
 手に入れた金で、豪奢に着飾った。まるでそうしなければならないかのように。
 目立てば狙われる、そして狙ってきた敵が獲物になった。そうやって刺客としての
腕を研いてきたのである。アイーシャが知らない、エシャールの過去。
 その更に過去は、エシャールさえ、知らない。
 誰に尋ねられても、決して名乗らなかった。自分に名前など必要はなかったから。
 だが、そんなエシャールの主義を綺麗なまでに否定して、簡単に名付けたのが
アイーシャだった。思えば記憶のないことなど、誰にも言ったことはなかった。
 アイーシャの屈託ない笑顔に思わず心を許していたのだろうか。相手が子どもだと
思っていたからかもしれない。今となってはもうどうでもいいことだが。
 アイーシャとこうして生きていくことは、きっと運命だろうと思うから。
 神も天帝も信じはしない。信じられるのは自分の思いとアイーシャだけだ。
誰の言うことも、今は何も信じない。信じたくない。
 もうしばらくは、ふたりで何にも邪魔されずにいたいのだ。
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